全ての始まり:町の健康診断から、突然の「要精密検査」
2021年9月:定期健診と、届いた紹介状
2021年9月、母はいつも通り、町が実施している定期の健康診断を受けました。メニューは一般的な胸部X線検査。
日常のひとコマに過ぎなかったその検診から後日、1通の郵送が届きます。結果は「胸部X線 要精密検査」とのことでした。
少しの不安を抱えながら、母は地元の総合病院へ向かい、胸部X線と単純CTの精密検査を受けました。そこで医師から告げられたのは、「肺に影のようなものが映っている。専門の病院へ行ってください」という言葉と、1通の紹介状でした。
がんセンターへの受診と、もどかしい検査の日々
後日、がんセンターの予約を取り、紹介状を持って呼吸器内科を受診しました。 血液検査、胸部X線、そして詳細なCT検査。
画像にははっきりとがんらしきものが映っていましたが、医師からは「場所が場所だけに、細胞を直接採取することができない。手術も難しい位置です」と言われてしまいます。がんの確定診断に必要な「病理検査」ができないという、もどかしい状況でした。
その後、腫瘍マーカーやPET-CTなどの検査を重ねました。PET-CTの画像では、肺の一部がくっきりと光っている状態でした。
諸々の検査結果を総合し、医師から下された診断は「小細胞肺がん」。 外科的手術は不可能なため、放射線と抗がん剤を組み合わせた治療計画が立てられることになりました。
放射線と抗がん剤、そしてオプジーボの開始
放射線治療の開始
まずは放射線治療から始まりました。 事前に体を固定するための治具(じぐ)を作成し、照射位置を何度も細かく調整して、母の体にマーキングが施されました。記憶が少し曖昧ですが、数回に分けて何度も実施したと記憶しています。
母は「放射線の副作用は特に感じられないよ」と言っていました。本当にそうだったのかもしれませんが、私たち家族に余計な心配をかけまいと、ただ気丈に振る舞ってくれていただけだったのかもしれません。
抗がん剤治療と、期待していたゲノム検査
放射線治療のステップが終わると、次は抗がん剤治療のフェーズに移りました。 近年注目されている「遺伝子パネル検査(がんゲノム医療)」に一縷の望みをかけていましたが、やはり最初の段階でがん細胞(生検組織)を採取できていなかったため、この検査は受けられないとのことでした。
母はその後、入退院を繰り返しながら、過酷な抗がん剤治療を必死に耐え抜いていきました。
抗がん剤治療が一通り終わった頃、治療の成果を評価するために、もう一度PET-CT検査を受けました(保険適用の兼ね合いもあり、1回目か2回目のどちらかは自費診療だったと記憶しています)。 再度のPET-CTの結果は、「最初よりがんは小さくなっているものの、完全な消失には至っていない」というものでした。
そこで医師から初めて提案されたのが、免疫チェックポイント阻害薬「オプジーボ」の投与でした。
オプジーボの投与と、1本の不穏な電話
再び入退院を繰り返す生活となり、オプジーボの投与が始まりました(自費だと薬価30万円ほどする高価な薬ですが、保険適用・高額療養費制度などで進められました)。
数回の投与を無事に終え、一旦退院となった時のことです。 私の携帯電話に、がんセンターの看護師さんから連絡が入りました。 「副作用について、まだ十分にお伝えできていなかった重大な点があります。オプジーボの副作用で、急激に血糖値が下がる(低血糖)可能性があります。もし様子がおかしかったら、すぐに病院へ連絡してください」という注意喚起の電話でした。
この時の電話が、のちに大きな意味を持つことになります。
突然の急変、そしてあまりにも残酷な宣告
「ふくろう、帰ってきて」
退院後の母はとても元気そうに見えました。自分で車を運転して買い物に出かけ、夕食の準備をする――そんな、愛おしい「普通の日常」を送っていました。
普段、私は仕事終わりなどに自分から母へ電話をかけることは滅多にありませんでした。しかしその日はなぜか虫の知らせがあったのか、仕事が終わった後、スマートフォンの履歴から自宅の固定電話へと発信したのです。
コールが鳴り、母が電話に出ました。しかし、開口一番に聞こえてきたのは、おかしな変化でした。
「ふくろう……帰ってきて……」
呂律(ろれつ)が全く回っていない、かすれた声でした。
私は瞬時に察しました。看護師さんから事前に言われていた「低血糖」の警告が、頭をよぎったのです。迷うことなく、会社の駐車場に止めた車の中から、すぐに119番通報をしました。
緊迫の救急要請と、病院での診断
消防のオペレーターの方へ、現在の私の状況、母の呂律が回っていないこと、がん治療でオプジーボを使用していること、看護師から低血糖の副作用を注意されていたこと、などを一気に伝えました。 そして、「家には母が一人きりです。玄関の鍵はかかっていないはずなので、到着したらすぐに部屋に突入して助けてください!」と懇願しました。私が自宅に戻るには、どうしても15分ほどかかってしまうためです。
生きた心地がしない中、必死に車を運転して自宅へ到着すると、すでに母はストレッチャーに載せられ、救急車へと運び込まれているところでした。
母はそのまま、治療中のがんセンターへと緊急搬送されました。 その時、他の家族は全員仕事に出ており、動けるのは私一人だけ。私は自分の車で、救急車の後を追うようにがんセンターへと向かいました。
病院に到着すると、母はすでに処置室へ。 しばらくして、呼吸器内科の主治医と、脳外科の先生から詳しい説明を受けることになりました。
「血糖値自体には問題ありませんでした。私たちは脳梗塞を疑い、すぐにCTを撮影しました。画像が少し荒くはっきりとは映らないのですが、少なくとも脳出血の疑いはありません。そのため、脳梗塞であると判断し、早期治療のために発症後すぐに使うべき脳梗塞の専門薬を点滴で投与します」
母はそのまま、緊急入院となりました。 当時はコロナ禍の真っ只中。面会は一切不可となり、母とのコミュニケーション手段は、手元のスマートフォンだけになってしまいました。
カンファレンスルームでの残酷な宣告
入院後、担当医から何度か病状の説明を受けていましたが、後日、改めて家族を交えての直接の説明の場が設けられました。
父、そして私の2人で病院へ向かい、車椅子に乗ってカンファレンスルームに現れた母と合流しました。3人で医師の言葉を待ちます。
しかし、医師の口から告げられたのは、あまりにも残酷な現実でした。
「今回の脳梗塞ですが、オプジーボの副作用によるものである可能性を完全には否定できません。したがって、安全面を考慮し、今後オプジーボを使った治療を継続することはできません」
がんを抑えるための希望の光だった治療が、副作用によって断たれてしまう。突きつけられた無情な宣告に、私たちは目の前が暗くなるような絶望を感じていました